阪神大震災ドタバタ治療日誌

阪神大震災ドタバタ治療日誌

体験的ボランティア入門

2002年の今 読むとちょっと気恥ずかしい文章ですがそのまま載せます。

1月17日 死ぬかと思う

まず地鳴りが聞こえた。フジイ君は上半身を布団の上に起こし、メガネをかけ
「地震」だと一言言ったそうだ。
フジイ君はじつはその辺のことをよく覚えていない。あとで妻に聞いた。
室内は明るかったから地震の発光現象のためだろう。それから猛烈な揺れ。

とにかく恐かった。
揺れの最中に、盛大なガシャガシャという物音。食器戸棚の戸が開き、
全ての食器が床に落ちて壊れていた。

明るくなって外に出ると、水道管が
壊れ、水か゛吹きだしている。近くの駐車場の
アスファルトに大きな亀裂が走っていた。

救援隊派遣を知る

1月19日―20日、フジイ君は全く落ち着きを失っていた。日々伝えられる地震の
惨状。目の前で人が死に、人か飢えている。何とかしなければ、気ばかりがあせる。
神戸市や西宮市のボランティア登録には電話がつながらない。
FM802で、人の背中で物資を被災地に運ぶボランティアを「国境なき医師団」
が求めているのを知る。針灸や柔整の関係で現地にはいるのが無理ならとこのボラン
ティアの応募を決める。何かをしなければ気がすまない。スタッフに21日の臨時休業を告げる。
治療院の壁に、被災地へ食料を持っていくから持ってきてくれという主旨の張り紙を張った。
20日(金)午後、一通の郵便。全国柔整師協会よりの速達。電話かほとんど通じ
ないためだ。骨折や捻挫の応急手当の救接隊を20日より出すという。地図と携帯電話を買った。

1月21日神戸に入る

梅田にある全国柔整師協会の事務所はごった返していた。あわただしく人が出入り
する。事務所の一角で薄汚れた顔の男たちが五六人タバコを吸っている。無精ヒゲが
伸びている。バイク隊だ。彼災地に最初に乗り込み情報収集して、車輌で行く本隊に
伝える。バイク隊、本隊の各車輌は携帯電話で結ばれている。急造にしては、たいした部隊編成だ。
21日は六台のバイク、8台の車輌が出発した。40人弱の部隊だ。車輔には包帯、
シップ等の衛生材料、食料、水が満載されている。

国道二号線で希望を見る

大渋滞にまき込まれる。国道2号線は緊急車輌のみ通行可能なはずだか、とにかく
動かない。その横を、物資を溝載したバイクや自転車か次々に走りぬけていく。
歩道も自転車とバイクの波だ。
神戸に近づくと、若者たちの集団が黙々と歩いているのが見えた。リュックを
背負い、かばんを抱えている。スキーバックを引張っている人もいる。道路の両脇
は倒壊家屋か゛続く。もうもうとした排気ガスの中、救援物資を背負った人たちの行進
は続く。人か゛人を救う強い意志の姿,フジイ君は涙を流し続けていた。

一人の患者とも出会えず

兵庫区役所まで行き、バイク隊から一枚の地図をもらう。避難所の場所が記入
されているが、要するに学佼と公民館だ。これ以上の情報はない。ケガ人は自分
たちでさがせということだ。避難所を回るが、骨折、捻挫等の患者はいない。すで
に病院で治療を受けていた。後で聞いたところでは、救授隊によっては、けっこう
治療した場所もあったという。行政から見落とされかちな小さな避難所に患者はいた。
とにかくフジイ君の班は一人の患者とも会えないまま救援物資だけ渡し、帰路に
ついた。行政を通しても何もわからないし、かえって行政をわずらわさせるだけに
なるとフジイ君は思っていた。

1月29日、現地に多くの仲間のいることを知る

知人の針灸師のグループが西宮のYWCAで治療をするという情報が入った。
結(ゆい)針灸整骨院のスタッフ総勢(といっても三人だが)と結(ゆい)に出入り
している人たちあわせて五人で、これに参加することにする。
西宮のYWCA内に臨時の治療所が設置されたが、もうひとつ患者の寄りが悪い。
避難所を回ってみようと提案してみるが、遂難所の方で拒否されたというYWCA
スタッフの返事。よくよく聞いてみると、断られたのは一つの避難所だけで、他は
回ってないらしい。YWCAのあるリーダーが「人はいるけれどリーダーかいない」
とつぶやいていたのか印象的だった。
人はいるけれどリーダーがいない。リーダーの処理すべきことが多くなりすぎ、
ミスも出る。逆に言えばリーダーとしてうまく措示を出すことさえできれば、たくさん
の仕事を処理できるということだ。ボランティア活動の内容にさえ共感できれば、
ボランティアたちはてきぱきと仕事をこなす。どこの組織に属しているかは関係が
ない。地震という大きな敵と闘う同志なのだから。フジイ君は現地に潜在的な多くの
仲間のいることを知った。
フジイ君たちは安井小に治療に出かけ、20名近くを治療した。安井小学佼は、
はりきゆう治療を喜んで受け入れ、治療用の部星まで提供してくれた。学校の机を並べて、
救援用の毛布をしき、治療用べッドにするというやり方は、この時発見した。

2月2日、路上で友をつくる

阪急西宮北ロに、林直子さんとともに降りた。林直子さんは西宮の被災者。家が全壊
し、吹田に仮住まい中。2月5日の針灸ボランティアの場所、樋ノロ小学校を借りる
交渉をしてくれた人だ。
フジイ君の針灸院は木曜と土曜の午後(2002年現在は水曜土曜の午後)と日曜がお休み。
日曜はボランティア治療をしたり子供と遊ぶ日となるため木曜と土曜の午後が準備となる。
フジイ君は今までの被災地での活動経験や情報から以下のように考えた。

① 被災地では情報の伝達が悪い。
はりきゅうマッサージを欲している人に短期間に
十分に情報が伝わるためには徹底した宣伝力が必要だ。
TV・ラジオ・新聞にボランティア治療のファックスを流し続けた。
パソコン通信にも書き込んでもらった。現地でのビラ張り、ビラまき。

②臨時治療所による治療を主とし、巡回治療を従とする。
・臨時治療所の方が針灸治療の治療条件がよく、冶療効果が高くなる。
・限られた時問内で効率的に多数の患者に治療できる。
・同一場所での共同治療から治療家同士に連帯感が生まれ、楽しく治療できる。
・心身とも衰弱して動けない状態の患者には巡回の方か有効だが、次の課題としよう。
限られた力量は一点に集中しよう。
② できるだけ早期にボランティア治療に入り、地元の同業者の立ち上がり状況を
見なから撤収する。ボランティア治療は、時間との戦いでもある。

フジイ君の2月2日の仕事は現地での徹底した宣伝と臨時治療所の場所の碓認
だった。背中のリュックのビラか重い。1月31日に西宮でのボランティア治療を
決めてから3日め。2月5日のボランティア治療日まで、あと正味2日。林直子さん
と2人だけで現地で情宣するとなると膨大な仕事量となるが、フジイ君にはなんとか
なるさという楽天的気分のようなものがあった。
西宮北口近くのコンビニで缶コーヒーを飲んでいると、路上に黄色の真新しい
へルメットを持った若者か3人歩いて来た。そろいのカーキ色のカストロジャンパー
を着ている。「これだ!」フジイ君はさっそく3人を呼び止める。若者の1人は腕に
ガムテープで腕章をつけ、ボランティアと黒マジックで書いている。
さっそくボランティア治療のビラをわたし、情宣の協力を依頼する。若者たちは
社会福祉協議会所属のボランティアだという。夕方の会議の時に提案してもらえば、
協カできるだろうという返事。やはり現地にはたくさんの友がいた。
結局、樋ノ口小学校にいたボランティアに周辺の避難所、地域も含めた情宣を
たのむことになり社会福祉協議会には丁重な断りの電話を入れた。ニ日間のうち
に樋ノロ小学佼を含む+数ヵ所の避難所・地域にビラはまかれ張られた。

人が組織を動かす

新聞にボランティア治療のお知らせか載ると、患者の問合わせよりも、治療家
からの「参加したい」という電話の方が多くかかってくるようになった。針灸師
の最大組織、日本針灸師会(フジイ君も会員だか)は、まだニ月初めの時点では
ボランティア治療を決定しておらず、フジイ君が事務局をやっている中医研の動きが
突出したものになっていた。中医研は勉強会に10名少し集まる小グル―プだ。
被災地や周辺の針灸師、マッサージ師たちは先進的にボランティア治療を
はじめていたか、臨時治療所の開設が新聞に載ったのは初めてだったようだ。
一人で行くのはちょっと不安だけど、みんなでいけばこわくないと、フジイ君
は最初柔整師会の救援隊で行く時思ったが、やっぱり同じように考える人は多いみたいだ。
東京から電話が入った。
「私たちのグループで行こうかどうしようか話し合ってるんですけど結論が出なくて」
「あなた自身はどうなんですか」
「そりゃあ行きたいですよ」
「じゃあ来ればいいじゃないですか。あなたか帰って話しすれば結論も違ってきますよ」
こうして川島君は2月5日の樋ノロ小学校の治療にやって来た。そして川島君
のグループ、積聚会は2月11日と12日のニ日問、平木小学校でボランティア
治療を行ない、のベ40名を治療した。
組織が人を動かすのではない。人が組織を動かす。

積聚会の小林会長はご高齢にもかかわらず小学校に寝泊まりして
治療をされたということを聞きました。会長みずからしんどいことを
引き受ける積聚会という会は 学派は違えど立派な会と 以来 尊敬しています

今日からあなたがリーダー

2月25日午後、宮本るみさん、藤井亜湖さんといっしょに神戸市長田区へ入る。
二人とも京都の大学生。初対面だ。はりきゅうマッサージの資格はないが手伝いたい
と言ってくれた。臨時治療所を予定している兵庫高校へ到看。26日のための設営が
主な仕事のはずだったか、話は違っていた。
使用予定の教室は、行政ボランティアたちが宿泊用に使っていた。
とにかく兵庫高校に場所はない。
玄関ホールも廊下もダンボールで仕切られ被災者の家になっている。
教室使用は兵庫高校の神戸市対策本部との確認だったか、対策本部といっても二泊
三日のローテーションで市の職員は交替しているし、処理すべきことはあまりにも多く、
みんなも疲れている。確認通りにいかなくても仕方がない。教室は昼間使えるので、
結局、民間ボランティアのリーダー中田君に翌朝の設営をお願いして一件落着。
中田君は一ヶ月以上泊まり込んでいるらしい。
この場合、行政よりも中田君の方か確実ということになる。
3月5日の設営もお顧いした。
宮本るみさん、藤井亜湖さんのニ人は、その辺のすったもんだの→部始終を体験。
その後、他の臨時治療所予定場所も回り、地理を把む。
帰りの電車の中でフジイ君はニ人に言った。
「現場の雰囲気も地理もわかったし、今日からはあなた方かリーダーだ」
そして2月26日、3月5日のニ日間、ニ人はリーダーとして活躍した。リーダーに
年令も社会的地位も関係ない。ニ人は素晴らしく積極的だった。

震災で友を誇りに思う

野本さんから電話かあった。
「今度の西宮の治療行かしてもらうから」
「先生、無理しなくてもいいですよ。大丈夫ですか」
フジイ君がこう言うのには訳がある。吹田の針灸師、野本さんはもともとの関西育ち。
関西にたまたま引越してきたフジイ君とは違い、被災地にたくさんの友人、知人が
いる。野本さんは彼らの救援に、フジイ君の何倍も忙しく活動しているからだ。
樋ノロ小学校の治源の時、野本さんはほとんどマッサージばかりしていた。野本さん
は本当は針灸専業の人。治療家に針灸専門の人が多く、マッサージ希望の患者さんと
アンバランスか生じたため、自分からマッサージを買ってでたのだ。
野本さんから また電話があった。
「長田の治療に行くつもりやったけど、友達の家の解体することになってなあ、
行政の処理を待ってられないわ。友連の植木屋といっしょに家、壊してくるわ」
と軽やかに言う。
フジイ君は野本さんのような友を持ったことを誇りに思った。

被災地の鍼灸師たち

杭瀬さんは神戸市北区の人。FAXが届いた。
「今回の長田区の治療に参加させてもらいます。本当は地元の人問かやるベきこと
ですか、神戸市南部の針灸院は被災かはげしく、北部は私も含めて視覚障害者が多く、
機動カに欠け充分に動けないできました。今回は一生懸命治療させていただきます」
お祭り屋的で、いささか軽薄なフジイ君はこういうしっかりとして、しかも謙虚な発言
の前にはただ頭を垂れるのみである。
長田区の宮の前針灸院の佐伯さんは兵庫高の臨時診療所に6台の石油ストーブを
はじめ、多くの備品を提供された。もちろん初対面。
フジイ君は電話の様子から鍼灸院は無事なものと思い込んでいた。ところか行って
みると、家屋はところどころにヒビか入っており、建ってはいるか、ガタガタ。
いわゆる半壊状懇。普通なら自分のところの建て直しで手一杯のはずなのに、と驚いた。
兵庫高には佐伯さんのもともとの患者も何人か避難されており、佐伯さんの姿
をみて、本当に嬉しそうだった。三木市の木田一歩さんは若手ながら、自信に満ちた
姿で独創的な治療をされていた。フジイ君は打針法なるものを初めて見た。やはり、
長田区に何人かの息者さんがいらしたとのこと。
「一月いっぱいは治療院を閉め、避難所をボランティア治療で回っていました。
どうせ患者も少ないと思っていましたから。二月からは(断水による)水くみの
筋カ痛やなんかでかえって患者か増えましたよ(笑)」とさらりとおしゃる。
一日休んだ以外は、治療院を開け、しっかり金もうけに励んでいたフジイ君は
ただ敬服するばかりである。

石井さんとハングライダーの仲間達

今回出会った人々の中で最も機動カに富んだ集団である。南駒栄公園に治療用の
大テントを設営できたのはひとえに彼らの力による。
今回のボランティア治療は皆の集団制作だ。森の宮の石井さんは例えぱ「じゃあ
大きなテントがあった方かいいですね。回りをシートで包んで!」と、フジイ君の
提案を具休的に肉付けし、ついでに機材も調違してくるのであった。みんなで壁画
でも画いているかのようなイメージだった。ボランティア治療に集まってくる人々の
人数、特技、持っている機材、どっからか調違してくる物資(例えぱ毛布が60枚
も某所より来たし、石油ストーブも数台テント村にカンパした)によって絵はどんどん
大きくなり、豊かな色彩となった。
紹介しきれないほどの人との気持ちのいい出会いか、フジイ君の元気の素である。

フジイ君、髪を切る

2月28日、フジイ君は朝日放送のワイドABCDE―すという番組に出演し
た。以前から、コープこうベの出している「ステーション」という雑誌に健康に
ついて書いていたのが、担当ディレクターの目にとまったためである。
出演依頼のあった時、「今、ボランティア治療で忙しいから後で」と答えたら、
「じゃあそのボランティアの様子もとりましよう」ということになった。
ディレクターの阿頼耶(あらや)さんも六甲アイランドで被災していた。
出演後、フジイ君は「たいしたことじゃないし別に話すこともないよ」と治療院
のスタッフに言っていた。ただその夜ビデオでしっかり自分の姿をチェックして
いたフジイ君は何か思うことがあったらしく、数日後耳かすっぽりかくれるほど
伸びていた長髪を、耳にかかる程度に切ったのであった。>

疲れたら休む

3月1日あたりから、フジイ君はイライラしはじめていた。ボランティア志願
の人への電話の応対もふっきらぼうになったのを自覚した。無理してやっても
いい仕事はできない。自分が面白くなければ人も面白くない。フジイ君の信条である。
まったくの個人的事情からいったんの撒収を考える。3月5日での撤収か早すぎる
のか、適当なのかはフジイ君にはわからない。ただ疲れたから休む、それだけだ。
現地のボランティアグループの連絡先を3月5日の参加者に配った。

ボランティアはだれでもできる

だれでもリーダーになれる。この小文は、フジイ君の1月17日―3月5日
の行動の個人的記録であるが、体験的ボランティア入門の手引きとしてでも
読んでもらえればいいと思って書いた。
要するにボランティアはだれでもできるし、活動の中で活動を学ぶ積極的姿勢と、
命令を待つのではなく自分で考える訓練さえすれぱ、だれでもリーダーになれるのである。
権威主義と構並び意識は、この時最も排すべきものになる。

今度はあなたがリーダーだ。